『咲-SAKI-』メモ

楽しませてください

可愛いおにゃのこが見たい。男は要らない。
たいへん分かりやすい欲求だ。しかも出てくる女の子は可愛い。おとなしそうなショートカットの主人公・咲(麻雀激強)、気の強い巨乳ツインテール・和(パンツはいてない百合)、タコス好きの色物・優希(変な語尾だじぇ)などなど。萌え要素のオンパレードだ。
並の男ならパンツをずり下ろしてマスターベーションを始めるところだろう。だがこの美影義人は違う!逆にパンツ上げる! 元ネタが分からない人は『人間兇器』(画・中野善雄+作・梶原一騎)を読んでいただきたい。
それはいいとして、何が違うのか。私はむしろ逆で、女の子より手! あの手でパイをいじくってる姿を見てるだけで、替えのパンツが必要になってくる。元ネタが分からない人は「バザロバ ナタリア」でぐぐっていただきたい。


と言うわけで、『咲-SAKI-』でもっとも素晴らしいのは「手」だと言ってしまおう。ロンより証拠、印象的な手のシーンを引用してみよう。
ツモ
ピアノっぽい指の広げ方。左手を前に出している意味はほとんどない。
伸び
親指の細さと長さが秀逸。実際のところ、人差し指と中指を伸ばした状態で、薬指と小指をこのように曲げられる人は少ない。
リーチ
小指の広げ方が無理。リーチ棒を挟むことにも意味がない。だが、それがいい
指きり
約束して、仲直りする時のシーン。そこで何故小指を出す! だが、それがいい


作者・小林立が手の描写に非常に自覚的であることは明らかである。実際にはありえない動きは、作中人物たちが「シナを作っている」ように見えるよう、計算されているはずである。あざとい、と思わないでもないが、それよりも巧みさへの賞賛が勝る。


そもそも麻雀マンガは動きの少ないジャンルであるから、どのように動きを演出するか、力量が問われる。その中でも、口ほどに物を言うのは手だ。名作麻雀マンガに、手の動きが重要ではない作品は幾つかあるが、手を描くのが下手な麻雀マンガ家に、名作はない。
だから『哭きの竜』(能條純一)の竜の手は閃光を発し、『SHOICHI 20年間無敗の男』(神田たけ志)のショーイチの手は常人の2倍しなり、嶺岸信明の描く手は節くれだち、伊藤誠のキャラクターたちはツモに向かう一瞬の動作を鮮やかに切り取ってみせるのだ。
気になるのは、作者が何を範にして、このような描写を選んだのか、という点である。私はいわゆる萌えマンガには興味がないので、このようなデフォルメが広く行われているのかどうか知らない。識者のご指摘を仰ぎたいところである。


ところで、このマンガに対して「麻雀闘牌*1シーンにリアリティがない」「高校麻雀選手権という設定に無理がある」などと批判する人がいるらしい。そんな青臭ボーイズに対してはハッキリと言おう、ゴチャゴチャ言わずに楽しめ! と。
麻雀マンガの歴史を振り返ったとき、闘牌シーンを中心にしてストーリーが進行していった作品はごく少数であり、だからこそ、それらは傑作として今でも語り継がれているのだ。凡百の作品の闘牌は、お粗末なご都合主義に終始する。
設定に関しても同様で、雀ゴロ、とかいう職業をリアルに描いた作品はほとんどない。

  • 総髪で着流しを着た雀ゴロの用心棒
  • 麻雀の秘伝を伝えるお寺の坊さん
  • 牌を弾く音で催眠術をかける絵師
  • 「アガリ ノ カクリツ ハ 72.5% デス」とかいうパソコンを駆使するコンピューター雀士

これらの人物のどこにリアリティがある!
君たちはもっとはっきりと欲望を口に出すべきだった。君たちって誰だかは分からないけど、たとえばこんな風に。
「僕らはもう、雀ゴロとか雀熊とかいう男たちに感情移入したりしないし、読みたくもない!
可愛いおにゃのこが見たい! 男は要らない!」

ということで、最初のテーマに戻ったので、美影義人はパンツ上げて退場する。そろそろ大元烈山が来るらしいので。くわばらくわばら。

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咲-SAKI-』(作画・小林立)は雑誌「ヤングガンガン」で連載している麻雀マンガ作品。2006年の2月〜3月に短期集中連載(全3回)された後、6月から本格連載が開始され、現在も継続中。
どのような作品か、あらましを知りたい方は「ヤマカム」の紹介文を。

各話の感想は、「近代麻雀漫画生活」を。

それぞれ参照のこと。

*1:ゲームの駆け引きを描写すること