大状況と小状況、についての考察・その1(BSMMYアカギ雑感)

大状況と小状況。戦略と戦術と言ってもいいが、麻雀というゲームに勝つことと、それに賭けられたモノを必ず受け取るための駆け引き、あるいは人生、に勝つこととの違いである。
賭けというのは本来、神様の神託を求める占いの側面もあり*1、紛争解決の手段としてギャンブルが使われた場合には、当事者を超えた大きな権力による保障が必要になる、とも考えられていた。


さて、初期麻雀劇画の時代から一歩踏み出した80年代の麻雀マンガ、特に竹書房を中心に掲載された作品群では、この2つの区別は大きな問題にならなかった。それらに通底する心性を憶測すると、

  1. まず一方で、麻雀で勝つ人間は神様に祝福されているのだから、それは人生の勝利とイコールで結ばれているという考え方、あるいは麻雀に負けたのに約定を違えることは死よりも罪深い、という素朴な信仰が前提にある。
  2. 他方、その裏返しとして、神様がどんな人間を祝福するのかといえば、自分に素直に生きていて、不要な力を求めず、不当な敵には立ち向かう、というタイプの人間であるからして、そういう生き方をしていればよい、という考え方を元にするものもある。

前者は正統派・任侠系の勝負マンガに、後者はコメディ・人情物に多いが、両者は厳密には区別できない。善徳を積み、恐れずに勝負に臨めば、ラッキーが舞い降りてきて、勝負に勝って悪は滅びてめでたしめでたし、という話作りが背骨としてある。
典型的なのは『あぶれもん』('86〜'88、画・嶺岸信明+作・来賀友志)に登場する帝王の死に方である。彼は勝負に負けて権力*2を得られなかったのが納得できず、勝者の啓一を狙撃しようとするが、
啓一が「たまたま」屈んだために失敗し、
「それを見て怒り狂った群集」に始末される。
完全な「天罰思想」である。勝った奴は神様に愛されてるから人生の勝者であり、負けた奴はもう見放されているから何をやっても無駄、ということだ。


しかしバブルが到来すると、神様に愛されようと愛されまいと、最終的に金を得ればいいんだろ、という風潮が盛んになる。
これに対する麻雀マンガ界のアンチテーゼが、たとえば『50円の青春 アーバンキッズ麻雀派』('91、画・地引かずや+作・吉田幸彦)である。
高レートで稼ぐのが凄い、偉いと思ってるヤクザたちや、世間に流されて一流企業に就職する同級生たちを尻目に、自分の生き方を貫く主人公の学生2人が、50円という安いレートで麻雀を真剣に追求していく物語だ。
この作品については、知己のマンセンゴさんと新田五郎さんが全く対照的なレビューを書いている。どちらも、とても興味深い。

ただ、私がここで押さえておきたいのは、90年になると、麻雀の勝ち負けと人生の勝ち負けとが、作品内でそう単純にリンクしなくなってきた、という点である。『50円の青春』の主人公たちは、現在から見ればややエキセントリックに映る。それは即ち、彼らの敵側に代表される考え方が強まっていったことの証左だろう。
しかし詳細は省くが、ここではまだ、作品全体としては勧善懲悪の域を出ず、主人公たちの信条は勝利を約束されているのであった。




さて、やっと福本伸行の登場である。彼はこの大小2つの区別について、あるいは時代の変化について非常に自覚的だった。
『天』の2巻で、代打ちとして登場したアカギはこんな趣旨のセリフを吐いている。

「麻雀みたいな らちのあかないものに 大金を注ぎ込んで破滅する奴らが多いんだよ」

福本の関心は、麻雀の勝負よりも、麻雀のような不安定なゲームにのめりこんでしまう人間心理の方に向いている。アカギにとって勝負とは、対戦相手の心理を読み、その論理を超越した戦術で勝つことで、相手が心理的に屈するのを見ることである。そしてアカギは、終わった後の賭け金の精算には全く興味を示さない。ここにおいて、

  • 小状況(麻雀・アカギ個人の勝利)
  • 大状況(金銭・アカギ陣営の勝利)

は完全に区別されている。


この区別が更にはっきりしたのが、『銀と金』の「誠京麻雀編」である。詳しく書くとネタバレになってしまうので控えるが、

  • 麻雀(小状況)はある条件(大状況)を満たすための手段に過ぎない。他の競技と交換可能である。
  • 同じ陣営にいながら、麻雀のプレイヤー(小状況)とスポンサー(大状況)との利害は微妙に噛み合っていない。
  • (核心なので言えないが、この観点から読んでみていただきたい。)

という3点が特徴として挙げられる。
このような区別が明確になったのは、やはりバブルの到来・崩壊が関係していると私は考える。本質はどうであれ、属人的な倫理や道徳の力が、組織的で非人間的な金の力に屈服した、と表面上は見えた時代である。
誠京麻雀編のラスボス・蔵前は金によって人の心を支配しようとし、人間の「飼育」を楽しむ怪物であり、一個人の力で打倒することは不可能な存在として描かれる。では、この状況で、彼と戦って勝つとは、一体どういうことなのか?。麻雀に勝てば祝福され、蔵前が破滅するといったシナリオは現実性を持たない。
福本はこのテーマを積極的に引き受け、見事な一つの解答を呈示した。けだし福本麻雀の頂点と言われる所以である。



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ちっとも『アカギ』本編の話に行かなかったが、これはその現在の停滞を見るために必要な作業だった。1991年に始まり、15年たった今も完結しない作品の中には、作者の思想の変遷や萌芽が含まれているし、また社会状況も随分と変化した。それらを注意深く見ていきたい。
(この稿続く(多分))