迷ってナンボのヘボ麻雀

北方謙三の『水滸伝』には数多くの好漢の死が登場する。中でも特に心に残るのは、双槍将・董平のそれである。原作とはかけ離れたキャラクターになっているため*1読者の評判はよろしくないようだが、あれぞ漢(おとこ)の死に様ではなかろうか。
梁山泊軍の司令官の1人・董平は、敵のラスボス・童貫の禁軍*2と初めて本格的に対決することになる。かつて禁軍の将校だった董平は、童貫の強さを必要以上に恐れてはないか、あるいは見下しすぎていないか、逡巡した末に、陣地を捨て野戦に打って出る。
倍以上の敵と渡りあう董平は、全く動かずに静観する童貫の手勢のことが頭から離れない。半分の兵を預かる副将の孫立は、最初から死に場所を求めて参加していたため、突出して戦死する。時間が経つにつれ、彼我の軍勢の差が重くのしかかってくる。
双つの槍の1つを失いながら戦う彼は、最後の気力を奮い立たせ、全軍を率いて敵に突入するが、まさにその時を見計らって童貫が側面を、董平を直接攻撃する。槍さえあれば、と思いながら、董平は瞬時に白い死の中に入っていく。




何の話か薄々お分かりの向きもいらっしゃるだろうが、『天』の最終章、赤木の死に際しての原田の話である。
かつて私は、『天』についてチャットした後に、原田を讃える一文を書いた。

読んでいただければ明白なのだが、まあ要するに、私は迷いに迷って生きる男が好きであり、悟って死ぬのは全然カッコ良くなんかないな、と思っている。熟慮の果てに決断し事に臨んでも、迷いが生じてくる、というのが人間だし、ずっとカッコいい。
原田は赤木に「棺の中に足を突っ込んで生きているようなもの」と言われ、動揺し、自分の生き方は、自分の願い・希望に本当に叶ったものであったか、自問する。しかし恐らく、彼の生活は基本的には変化しないだろう。棺の中にズブズブ足をつっこんだまま死ぬはずだ。人間は、そう簡単には変われない。




人間は、そう簡単には変われない、と言うのは、生き方の話だけではなく、勝負事の問題でもある。勝負には様々な種類があるが、実のところ、敵の方が強い、と分かった時には既に負けている物が大半で、勝負の最中に、対抗策を編み出せる物は少なかったりする。
言い換えると、敵の戦略が自分のそれを上回ったとき、局地的な戦術で劣勢をはねかえすことは困難である*3
しかし麻雀は、戦術で戦略をひっくり返すことができる勝負である、と長いこと信じられてきた。「ヤクザだろうが財閥オーナーだろうが、卓に着けば(無頼である俺と)平等だ!」と言ったような、麻雀マンガに典型的に見られる言説は、間接的にこの事を証明している。
麻雀が運に頼ることの大きいギャンブルであることも、この言説を補強している。社会における成功譚の多くは「結局のところ運が良かった」という述懐を含むものが多い。逆にひっくり返して麻雀に当てはめると、「麻雀で勝つ人=運が良い=成功者」という主張になり、麻雀の強さによってそれまでの人生の劣勢が覆せるかのような、あるいはそれまでどんなに人生で成功しても、麻雀で負ければそこでオシマイであるかのような錯覚を生み出すことになった。




そういう意味で見た時、赤木は麻雀で負けなかったが故に、原田に対する有効なアドバイスができなかったのだと考えられる。赤木の死の後日譚に原田が出てこないのは紙面の都合だろうが、原田は赤木の価値観の外にいる人物だからだと言えないこともない。
赤木がオルグできるのは、人生にウダウダ思い悩むひろゆきクラスまでであり、現実にドップリ漬かっている原田を惑わせることはできても、変えることまではできない。別にそんな事はしたくなかっただろうけど。そしてそんな原田は萌えキャラ、マイチェリッシュ。
まあいいや、要するに赤木の最後はカッコ悪いな、と私は思っている、それだけの事である。あんまりズバリと言いたくなかったので「死ぬまで保留する」つもりだったのだが。
もし自分が赤木だったと仮定したとき、自分の安楽死装置を人に作ってもらうという、この恥ずかしさだけでもうイヤになる。描かれてはいないが、多分あれは人に作ってもらったのだろう。設計や施工に関しても、ある程度関与したり、意見を出したりしただろう。
それを恥とも思わない人生美学の持ち主が赤木であり、だからこそ一流のピカロとして、90年代の麻雀マンガ界に君臨したのだ。


口直し


言いたいことはもう終わったので、以下は蛇足である。
麻雀における戦術と戦略とは、簡単に言うと、「麻雀での勝ち分の受け取りをキチンと履行できるかどうか」という問題である。ジャンケンで勝ったら100円くれる、と言ったのに、100円くれなかっり、3回勝負ね、とか言い出す人の事を思い起こしていただきたい。
しかし初期麻雀マンガの主人公である雀ゴロたちには、この命題はあまり問題ではなかった。彼らと彼らの敵は、概ね「生」もしくは「肉体」という大事なものを卓上に投げ出しており、負けた場合には死んだり、指を潰したり、目を潰したり(どちらも麻雀打ちとしての死を意味する)するのが通例であった。彼らにとって、負けた時に賭け額をごまかすのは死に値する大罪なのである。
阿佐田哲也の小説の登場人物ですら、負けた時にどう逃げるか、について考えていたのに、20年近く後に生まれた彼らは呑気にそんなやり取りをしていたのだが、そんな理想郷が長続きするはずもない。リアリティの欠片もないそれらのマンガは廃れ、次にやってきたのは、麻雀によって人生の問題が占われる作品群である。「麻雀=人生占い系」であり、この世界は『哭きの竜』によって登極と失墜とを同時に迎えることになる。
話を戻すと、福本伸行はこの「100円貰えるか問題」について自覚的であった。『銀と金』の誠京麻雀がどのような結末を迎えたかを見れば、このことは明らかである。しかしその自覚が、現在連載中の『アカギ』を進ませないのだと推測される。
今「アカギ」を読むと「もし勝負に勝ったとして、アカギは無事に帰ってこられるのか?」と疑わざるをえない。そしてその疑念が生じるのは、麻雀という勝負のルールを大きく逸脱しているから、具体的には、白服が脇から助言しまくるからである。
鷲巣麻雀というルールは、特殊なルールではあるが、普段行う麻雀の形を大きく外れたものではない。私はリアルで鷲巣麻雀を経験したことがある(ただし血は抜かない)が、1つの致命的な違いに目をつぶれば、通常の麻雀と同じように遊ぶことが可能だった。
しかし事がプレイヤー以外の観戦者からの助言、あるいは直接行動*4になると次元が違う。先ほど述べた戦術と戦略で言えば、明らかに戦略の部分に足を踏み越えてしまっており、これを戦術の部分だけで収拾することは難しいし、戦略の部分をも同時に描くことはもっと難しい。
麻雀の部分では、アカギの勝ち方のリアリティがより厳しく問われる。麻雀の暗黙の了解として禁じられている事項を敵方が行った場合に、アカギが勝つためには自身も了解を破るか、それを逆手に取るかといった選択肢がある。すでに輸血という暗黙の了解破りで読者の失望を買っている状態で、残された手段はあるのだろうか。
そして勝った後にも困難がつきまとう。鷲巣はすでに自分の全財産を賭けている。勝ったとして、これを無事に持ち帰ることはできるのか。ボンクラな私の頭では、公権力の介入か、鷲巣と手を組むか、その2つくらいしか思いつかないが、どちらも寒いし、『天』の赤木との整合性が取りづらい。
凡人の発想で見てはならないのかもしれないが、多分「アカギ」が一向に進まないのは、竹書房が辞めさせてくれないからそういった事情ではないかなぁ、と思われる。どっとはらい


口直し

*1:原作の董平は「英雄双槍将」「風流万戸侯」と旗印に掲げる風流人だったが、この作品ではストイックな、生粋の軍人として描かれる

*2:近衛軍

*3:知人の話では、『銀河英雄伝説』(田中芳樹)のテーマの1つがそれらしい

*4:鷲巣の手をつかむとか