BS麻雀マンガ夜話『アカギ』終了。

倍プッシュ

6日の23時から翌朝の7時までやってた。その後、同人誌「麻雀の未来」第2号の打ち合わせを9時までやったよ。テラネム*1
でも面白かったな。若林さん@翠風、田中さん@雀士畢生危機一髪、四方田さん@TOKYO巡礼歌、いたるさん、ヒロタシさん@似非トーライ、スズキトモユさん@アキヤマニア、ら・どてんさん。素晴らしいメンバーと話すことによって、感謝してもしきれないほどの大きな収穫を得られた。
以下ちょっとした考察(敬称略)。

*1:とても眠い、の意

BS麻雀マンガ夜話「アカギ」予習

BS麻雀マンガ夜話
10月6日(金)の23:00から、BS麻雀マンガ夜話が開かれるらしい。

題材は『アカギ』と『オバカミーコ』とのこと。

というわけで、『アカギ』メモ。

  • アカギの休載は2000年2月から2001年4月まで。実は長期休載はそれだけ。
  • からくりサーカス』のギイ・クリストフ・レッシュはアカギに似てる。アカギをローマ字で書くと「AKAGI」これを2つに分けると「AKA」と「GI」、「AKA」とは「A.K.A」、「またの名を(Also Known As)」の略語。「GI」はもちろんギイのこと。つまりアカギとは「またの名をギイ」という意味だったのだ。
  • 来賀友志の闘牌は「場」を重視する。理解しやすい範囲で説明すると、全く同じ配牌が来ても、その時のメンツによって打牌は違ってくる、という意味であるが、彼の意図は恐らくそこには留まらない。
    来賀は自身のマンガ原作の闘牌について、「全て実戦譜を元にしている」という趣旨の発言をしているらしい。つまり『天牌』に現れる超絶的なアガリの数々は、いずれも「麻雀で実際にありうる事」の範囲内であり、ある領域に達した4人のプレイヤーが作る「場」では、我々が異常な確率でしか起こりえない、と考えている現象こそが常態であり、通常の理は歪んでしまう、という思想だと考えられる。4人の中に1人でも分かってない奴がいることが問題になるのは、このためだ。
    そしてここでは、読者も厳しく試されている。「場」を見るというのは、4人それぞれの事情を深く理解することである。学生選手権のラストが最後の一牌までもつれたのは何故か、四川が、天狗が何故ああいう決着になったかは、4人がそれまでどういう場を作り上げてきたかを見ないといけない。
    他方『アカギ』では、アカギが最初から慮外の作戦を繰り出すことは分かっているし、そもそも『天』のスピンオフ作品であるため、結末も予想の範囲内にとどまる。いきおい焦点は、アカギが次にどんな発想をしてくるか、あるいはライバルがどのような作戦を取るか、その駆け引きに絞られてくる。
    この方式はキャラクターの過剰さが分かりやすい形で呈示されるので、読者は素早く作品世界内に入り込めるし、サイドストーリーなども構想しやすい。
  • アカギと鷲巣はともに異常者として描かれる。鷲巣は自身の快楽のために人を殺し、アカギはギャンブルの中でしか生を実感できない。2人の対決は簡単に言うと「どっちがお互いを先に恐怖させるか」であり、一応アカギが勝つことが想定されている。では思想的に敗北し、後退せざるを得ない鷲巣はどうならざるを得ないのだろうか。




リソースたち

参考にしたいサイト・ページ。

初期のアカギの闘牌のまとめ。

Wikipediaによるまとめ。メディアミックスを含めた全体を俯瞰しており、参考になる。アニメの製作ミスの一覧が充実している。

構成・セリフの選択、ともに質の高い名セリフ集。

福本のAA(アスキーアート)のまとめから、アカギの項。出典(第○巻の第○話)が明記されているのが素晴らしい。

BS麻雀マンガ夜話の主宰者、ヒロタシ氏によるメモ。鷲巣麻雀が始まってから、1話でどれくらい進んだかをまとめている。左が話数、右が進行状況。

フグになったりする…そっちの方が望ましい

スズメフグことショウサイフグ

フグ刺しの美味しい季節になってきました。駆け巡る脳内物質…テトロドトキシン…脳内? いつの間にやら、脳内でフグ毒を生成できるようになったみたいです。なにしろ最近ままならぬこと*1が多くて、「フグ(ゥ)を囲っておりますから」。
と言うわけで、昨日読んだ『サムライ雀鬼』(画・麻生竜也+作・高山潤+脚色・武市英介)という作品に登場する死に方には痺れました。
まず、麻雀を通じて日本を乗っ取ろうとする国際組織「クモ」の幹部、田所さん。任務に失敗して粛清されます。

サムライ雀鬼1
pp.176

そして、「クモ」最強の打ち手、ジョーの死に方は…

サムライ雀鬼2
pp.270

見づらいですが、1コマ目の下でグッタリしているのがジョーです。ナイフが刺さってます。主人公を刺そうとしてコケて、自分の胸に突き刺さりました。上で彼を揺すっているのが母親のサラ・シモンさん。「クモ」のボスです。サラさんの告白。

サムライ雀鬼3
「ジョーは ジョーは私の子供なのです 私はジョーを世界一麻雀の強い男にしたかった…」「世界一強い男にして日本の麻雀界を支配させようとしましたが…… ジョーは日本にいる間に私の知らないほどの変わりようでした……
pp.270

身勝手な動機はさておき、日本に来て彼の何が変わったかと言うと、

サムライ雀鬼4
コーヒー好きのジョーは日本に来て濃いコーヒーをがぶ飲みして中毒になった! コーヒーが切れると錯乱状態になり 飲めば治るが その一瞬頭のなかが真空のようになってしまうのだった
pp.271

だそうです。読み返してみると、確かに彼は幹部会議の時、誰も飲み物を飲んでないのに1人だけコーヒー飲んでたりします。細かい伏線だなぁ。
そしてサラは日本侵略を諦めて帰ります。さわやかな締めくくり。

サムライ雀鬼5
pp.271

アメリカ人の遺灰の抱え方ってこれでいいのかしら? 飛行機がこっち向いてるのは離陸なの? と疑問がよぎりますが、それを問題にしない構図の安定感です。でもこんなラストでいいのかしら?
あと、今の今になって気づいたんですが、多分これ、「アメリカ人は薄いアメリカンコーヒーを飲みつけているから、日本の濃いコーヒーにあたった」っていう理屈なんだと思います。火星から来たエイリアンが風邪のウィルスにやられたみたいなもんですか。
今やアメリカ人はイタリアンローストのエスプレッソだのフレンチローストのカフェラテだの、煎りの深いコーヒーばかり飲んでいるというのに。1979年の作品を読む時には、その時代背景をしっかり考えなければなりませんね。そういう教訓話でした。



*1:主にホークスのプレーオフがらみ

迷ってナンボのヘボ麻雀

北方謙三の『水滸伝』には数多くの好漢の死が登場する。中でも特に心に残るのは、双槍将・董平のそれである。原作とはかけ離れたキャラクターになっているため*1読者の評判はよろしくないようだが、あれぞ漢(おとこ)の死に様ではなかろうか。
梁山泊軍の司令官の1人・董平は、敵のラスボス・童貫の禁軍*2と初めて本格的に対決することになる。かつて禁軍の将校だった董平は、童貫の強さを必要以上に恐れてはないか、あるいは見下しすぎていないか、逡巡した末に、陣地を捨て野戦に打って出る。
倍以上の敵と渡りあう董平は、全く動かずに静観する童貫の手勢のことが頭から離れない。半分の兵を預かる副将の孫立は、最初から死に場所を求めて参加していたため、突出して戦死する。時間が経つにつれ、彼我の軍勢の差が重くのしかかってくる。
双つの槍の1つを失いながら戦う彼は、最後の気力を奮い立たせ、全軍を率いて敵に突入するが、まさにその時を見計らって童貫が側面を、董平を直接攻撃する。槍さえあれば、と思いながら、董平は瞬時に白い死の中に入っていく。




何の話か薄々お分かりの向きもいらっしゃるだろうが、『天』の最終章、赤木の死に際しての原田の話である。
かつて私は、『天』についてチャットした後に、原田を讃える一文を書いた。

読んでいただければ明白なのだが、まあ要するに、私は迷いに迷って生きる男が好きであり、悟って死ぬのは全然カッコ良くなんかないな、と思っている。熟慮の果てに決断し事に臨んでも、迷いが生じてくる、というのが人間だし、ずっとカッコいい。
原田は赤木に「棺の中に足を突っ込んで生きているようなもの」と言われ、動揺し、自分の生き方は、自分の願い・希望に本当に叶ったものであったか、自問する。しかし恐らく、彼の生活は基本的には変化しないだろう。棺の中にズブズブ足をつっこんだまま死ぬはずだ。人間は、そう簡単には変われない。




人間は、そう簡単には変われない、と言うのは、生き方の話だけではなく、勝負事の問題でもある。勝負には様々な種類があるが、実のところ、敵の方が強い、と分かった時には既に負けている物が大半で、勝負の最中に、対抗策を編み出せる物は少なかったりする。
言い換えると、敵の戦略が自分のそれを上回ったとき、局地的な戦術で劣勢をはねかえすことは困難である*3
しかし麻雀は、戦術で戦略をひっくり返すことができる勝負である、と長いこと信じられてきた。「ヤクザだろうが財閥オーナーだろうが、卓に着けば(無頼である俺と)平等だ!」と言ったような、麻雀マンガに典型的に見られる言説は、間接的にこの事を証明している。
麻雀が運に頼ることの大きいギャンブルであることも、この言説を補強している。社会における成功譚の多くは「結局のところ運が良かった」という述懐を含むものが多い。逆にひっくり返して麻雀に当てはめると、「麻雀で勝つ人=運が良い=成功者」という主張になり、麻雀の強さによってそれまでの人生の劣勢が覆せるかのような、あるいはそれまでどんなに人生で成功しても、麻雀で負ければそこでオシマイであるかのような錯覚を生み出すことになった。




そういう意味で見た時、赤木は麻雀で負けなかったが故に、原田に対する有効なアドバイスができなかったのだと考えられる。赤木の死の後日譚に原田が出てこないのは紙面の都合だろうが、原田は赤木の価値観の外にいる人物だからだと言えないこともない。
赤木がオルグできるのは、人生にウダウダ思い悩むひろゆきクラスまでであり、現実にドップリ漬かっている原田を惑わせることはできても、変えることまではできない。別にそんな事はしたくなかっただろうけど。そしてそんな原田は萌えキャラ、マイチェリッシュ。
まあいいや、要するに赤木の最後はカッコ悪いな、と私は思っている、それだけの事である。あんまりズバリと言いたくなかったので「死ぬまで保留する」つもりだったのだが。
もし自分が赤木だったと仮定したとき、自分の安楽死装置を人に作ってもらうという、この恥ずかしさだけでもうイヤになる。描かれてはいないが、多分あれは人に作ってもらったのだろう。設計や施工に関しても、ある程度関与したり、意見を出したりしただろう。
それを恥とも思わない人生美学の持ち主が赤木であり、だからこそ一流のピカロとして、90年代の麻雀マンガ界に君臨したのだ。


口直し


言いたいことはもう終わったので、以下は蛇足である。
麻雀における戦術と戦略とは、簡単に言うと、「麻雀での勝ち分の受け取りをキチンと履行できるかどうか」という問題である。ジャンケンで勝ったら100円くれる、と言ったのに、100円くれなかっり、3回勝負ね、とか言い出す人の事を思い起こしていただきたい。
しかし初期麻雀マンガの主人公である雀ゴロたちには、この命題はあまり問題ではなかった。彼らと彼らの敵は、概ね「生」もしくは「肉体」という大事なものを卓上に投げ出しており、負けた場合には死んだり、指を潰したり、目を潰したり(どちらも麻雀打ちとしての死を意味する)するのが通例であった。彼らにとって、負けた時に賭け額をごまかすのは死に値する大罪なのである。
阿佐田哲也の小説の登場人物ですら、負けた時にどう逃げるか、について考えていたのに、20年近く後に生まれた彼らは呑気にそんなやり取りをしていたのだが、そんな理想郷が長続きするはずもない。リアリティの欠片もないそれらのマンガは廃れ、次にやってきたのは、麻雀によって人生の問題が占われる作品群である。「麻雀=人生占い系」であり、この世界は『哭きの竜』によって登極と失墜とを同時に迎えることになる。
話を戻すと、福本伸行はこの「100円貰えるか問題」について自覚的であった。『銀と金』の誠京麻雀がどのような結末を迎えたかを見れば、このことは明らかである。しかしその自覚が、現在連載中の『アカギ』を進ませないのだと推測される。
今「アカギ」を読むと「もし勝負に勝ったとして、アカギは無事に帰ってこられるのか?」と疑わざるをえない。そしてその疑念が生じるのは、麻雀という勝負のルールを大きく逸脱しているから、具体的には、白服が脇から助言しまくるからである。
鷲巣麻雀というルールは、特殊なルールではあるが、普段行う麻雀の形を大きく外れたものではない。私はリアルで鷲巣麻雀を経験したことがある(ただし血は抜かない)が、1つの致命的な違いに目をつぶれば、通常の麻雀と同じように遊ぶことが可能だった。
しかし事がプレイヤー以外の観戦者からの助言、あるいは直接行動*4になると次元が違う。先ほど述べた戦術と戦略で言えば、明らかに戦略の部分に足を踏み越えてしまっており、これを戦術の部分だけで収拾することは難しいし、戦略の部分をも同時に描くことはもっと難しい。
麻雀の部分では、アカギの勝ち方のリアリティがより厳しく問われる。麻雀の暗黙の了解として禁じられている事項を敵方が行った場合に、アカギが勝つためには自身も了解を破るか、それを逆手に取るかといった選択肢がある。すでに輸血という暗黙の了解破りで読者の失望を買っている状態で、残された手段はあるのだろうか。
そして勝った後にも困難がつきまとう。鷲巣はすでに自分の全財産を賭けている。勝ったとして、これを無事に持ち帰ることはできるのか。ボンクラな私の頭では、公権力の介入か、鷲巣と手を組むか、その2つくらいしか思いつかないが、どちらも寒いし、『天』の赤木との整合性が取りづらい。
凡人の発想で見てはならないのかもしれないが、多分「アカギ」が一向に進まないのは、竹書房が辞めさせてくれないからそういった事情ではないかなぁ、と思われる。どっとはらい


口直し

*1:原作の董平は「英雄双槍将」「風流万戸侯」と旗印に掲げる風流人だったが、この作品ではストイックな、生粋の軍人として描かれる

*2:近衛軍

*3:知人の話では、『銀河英雄伝説』(田中芳樹)のテーマの1つがそれらしい

*4:鷲巣の手をつかむとか

風は 未来へ 聞くものだ! ぼくらは にぎやかに 街路をまがり 黒い未来へ 唐突に匂って行く(石原吉郎)

pai-siri2006-09-29

最近とにかく嵌っているTOKYO巡礼歌さんが、同人誌「麻雀の未来」の感想を書いてくれた。

『理想雀士ドトッパー』(片山まさゆき)風の表題のつけ方にもマニア心をくすぐられるが、内容はとにかく過褒にあずかり恐縮と言うほかない。
さてその中に、福本伸行についての言及があった。のたまわく、

とか言うと、麻雀界に圧倒的に貢献しているのは福本伸行だよなぁ…と思います…。うん…。

(↑※ふろく?に頂いた、福地誠さんとizumickさんの麻雀漫画対談小冊子を読んだ上であえて書いています。)

と。
麻雀漫画対談小冊子は、8月のコミティアで委託販売した時の付録で、目にされた方は少ないと思うので、該当する部分を抜き出してみる。麻雀マンガの枠の拡大・縮小といった話題の流れの中での発言である。

Izumick
 福本ねぇ。個人的な恨み、に近いのですが、「カイジ」以降の読者が「福本の麻雀マンガも面白い」っていうのが気に喰わないんですよね。
いたる
 そりゃホント個人的だよ(笑)
福地
 福本さんは、麻雀漫画という舞台を盛り上げたというよりも、麻雀漫画という舞台から出発して大きくなったという感じがするなー。

私の主な関心は、90年代の情報消費社会の中で、麻雀マンガが「流行っている」とか「皆が読んでいる」といった周縁情報によって左右されるようになった、その状況に向いているので、別に福本作品が面白くないとか、嫌いとか言っている訳ではない。
それと私は性格が非常に偏狭なので、ミーハーな麻雀マンガファンが嫌いである。と同時に、『咲-SAKI-』を読んで「闘牌シーンが薄い」とか通ぶった批評をする麻雀マンガファンも大嫌いである。福本作品を推奨したいがために、ギャンブル漫画全般を歪んだ図式の下に押し込もうとする批評はショボイなぁ、と思うし、最近の「カイジ」を読んで「麻雀は難しい」とか言う輩には「もっと勉強しろ」と思う。そんな人間である。
だから福本伸行が麻雀界に貢献しているという意見には、特に異論がない。『天』の東西決戦は、数ある麻雀マンガの闘牌シーンの中でも出色のものであると思う。
しかし福本作品全般、という話になると、正直、心に響くものが少ない。それは主に、赤木の人物造形に対する違和感によるものだと思われるが、自分でもよく分からない。
と言うわけで、まとまらない物をいささか強引に文章にしてみた。乱文失礼。


口直し

まんだらけトラッシュ NO.03

古書店まんだらけ」の発行するミニコミ誌。定価600円(税込)。「芳文社特集」ということで買ってみた。画像はまんだらけトラッシュ紹介ページから拝借。
芳文社の旧ロゴの単行本536冊の表紙を総覧して、簡単な評を加えてあるのだが、とにかく「こりゃすげーや」と驚く情報量。麻雀マンガ作品全58点はもちろん、それ以外のジャンルの作品の数々に完全に魅了されてしまう。麻雀マンガを求めて、アクション・マンサン・ゴラク・日本文華・リイド・桃園・グリーンアローなどのマイナーコミックの棚に目を凝らしたことがある人なら、絶対に買っておくべき1冊である。




拙稿「麻雀マンガ30年史(前編)」では、芳文社は雑誌「特選麻雀」を中心に、80年から1984年にかけて麻雀マンガ作品を刊行していた、と記述している。しかし解説を読むに、どうやら幾つもの誤りがあるようだ。
その1つ目は、「特選麻雀」以前にも、複数の雑誌に掲載されていた麻雀マンガ作品が単行本化されていること。「コミックMagazine」「漫画ルック」「別冊週刊漫画」「漫画パンチ」「漫画パンチ増刊」「漫画コミック」などの雑誌があったらしい。なんて検索泣かせなタイトルたち…
雑誌についての記述から、麻雀に関わる部分だけを拾ってみる。

コミックmagazine
(中略) 1979年半ばに連載+中篇読切3本立てに方向転換。エロは前田俊夫、宮尾たけ士、麻雀はみやぞえ郁也、山口勝義など中心に良作に恵まれるが1980年10月2日号で「鉄火の巻平」が終了すると、看板作品がなくなり「濃密な色気とハードな行動雑誌!」を掲げた麻雀とエロの読切雑誌となる。(後略)


pp.2

漫画コミック
(中略)芳文社の劇画誌の中でも20代をターゲットとした比較的若年層向けの実験的構成だったが、4月*1には軌道修正し同年8月には麻雀&官能特集号が組まれる。このあたりから読切作品の比重が高くなる。
1981.6/3号からは4コマ漫画が1/3近くを占めるようになってくると麻雀漫画が減少し、(後略)


pp.3

2つ目は、出版年が、1978年から1986年の間に広がっていること。後期は『雀鬼が行く』(司敬)など、「特選麻雀」の連載作品が多く、前期はコミックmagazineのそれが多いようだ。



あとは、面白かった所を適当に引用。

北山茂樹「地獄の雀狼」漫画パンチ増刊11/14号212ページ書下ろし。
漫画パンチ増刊の巻末2色カラーページに掲載されていた『賞金3万円麻雀クイズ劇』は画北山先生の作品。実はアレが一番面白い。


pp.14

欄外マンガが一番面白い!!まあ、北山先生のマンガはアレだからなぁ…(苦笑)。桃園書房久保書店、そして芳文社。1976年ごろから、貸本テイスト溢れる遍歴をたどった北山先生については、ぜひ一度特集を組みたいと思っている。特に、北山先生の画力で無謀にもギャグに挑戦した問題作『麻雀三銃士』(下画像参照)あたりを中心に。

『地獄麻雀』
劇画・田丸ようすけ
原作・板坂康弘・灘麻太郎

漫画パンチ連載。人工授精児=愛の伴わない出産!人口授精児で生を受けた俺自身がイカサマだ!!イカサマ人間として生まれた以上、この世の人間の絆を破壊しつくしてやる!


pp.26

よ、読みたい…!!原作の1人、板坂先生は雑誌「近代麻雀」の初代編集長だが、原作では色々と映画にインスパイアされていて面白い。この作品の時代(1978)だと、多分「オーメン」あたりを念頭に置いているのではないかと推測される。別の所でも、

雀鬼』全2巻
劇画・和田順一 原作・板坂康弘

漫画ルック1977.9/21より連載。原題「さすらい雀鬼」。(中略)前田俊夫先生の「タクシードライバー2」的展開から雀鬼とジャンキーをかけてある事に気付いた方が何人いるのか?


pp.51

と評されている。前田俊夫タクシードライバーってのが良く分からないが、多分デ・ニーロの映画と関係あるのだろう。さすがシナリオ研究所出身だけはある。個人的には、麻雀版アメリカン・ニューシネマ『麻雀阿修羅伝』(画・村岡栄一)がオススメ。
麻雀阿修羅伝



最後に、麻雀コミック・間違えやすいタイトルベスト3を披露して終わりたい。
◆3位:『麻雀三四郎』(くずはら和彦)と『雀鬼三四郎』(みやぞえ郁也)
どちらも名作であり、芳文社コミックスの前期と後期をそれぞれ代表する作品。特に『麻雀三四郎』の闘牌は当時としても群を抜いている。『雀鬼』の方は、明るいお色気路線が楽しめる一品。主人公の一人称が「小生」、ヒロインのあだ名が「マドンナ」だったりするのが時代を感じさせる。


◆2位:『麻雀刑事』(都佐野史樹)と『牝雀刑事』(前田俊夫)と『刑事雀士』(北山茂樹)と『新宿刑事牌』(沢本英二郎)と『雀狂刑事』(多賀一好)
劇画はとにかく刑事が好きである。権力=暴力の象徴というより、ただ単に拳銃ぶっぱなしたいだけ。個人的には、ただの探偵(というか兄を殺した犯人を突き止めるだけ)なのに堂々と詐称する『刑事雀士』や、麻雀マンガだと分かるように後でくっ付けました的な『新宿刑事牌』の潔さに惹かれる。ちなみに『雀狂刑事』は「ジャングルデカ」と読む。
昔の麻雀マンガタイトルにはよく「雀鬼」「雀狼」「雀狂」が使われていた。取り分け多かったのが「雀鬼」で、今のようにただ1人の人間を指すようになったのは90年代以降のことである。


◆1位:『雀ごろ地獄』(みやぞえ郁也)と『地獄の雀狼』と『地獄麻雀』(田丸ようすけ)と『雀鬼地獄牌』(郷力也)と『雀鬼牌地獄』(北山茂樹)と『麻雀蟻地獄』(中野善雄)と『麻雀地獄変』(宮本ひかる)
7つのうち後4つは芳文社ではない。しかも、この中で本気で「地獄」の名に値するのは後2つだったりする。主に作画クオリティの面で。
ギャンブルにはまって脱け出せない、というのは一時期の大テーマであり、明るいラストを迎えるのは『雀ごろ地獄』くらいであろうか。宮本ひかるはひばり書房でホラーマンガを手がけていたそうだから、そちらからの連想もあるのだろう。

*1:1979年・引用者注